「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」‥柏崎刈羽原発と佐渡の間の海域には火山島をふくむ島が10島あった。
・頚城平野と刈羽を画する米山と尾神岳
‥画面左、米山の↓向こうには柏崎刈羽原発‥(頚城平野より遠望)
・頚城平野西南を画する、黒姫、妙高・火打ち・焼け山(頚城三山)
…画面中央に見える2015年夏以来、焼け山は噴気↓をあげる。
この頚城三山の西に、並行してフォッサマグナ西縁は走り、そのラインは海底へと続く
『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図‥柏崎刈羽原発と佐渡の間の海域には10島があり、火山島もあった。‥が‥1000年以上前の大地震によって沈没した。
[巻頭図]
ながいながい前置き
これから長々と書こうといういう文頭に‥こう書くとなんだかへんだけれど、ボクもはじめは、「う〜ん眉唾っぽいな 」と思ったのだ。‥もうこの絵図のことが気になりだしてから3年は経つ。‥
一つ目の突破口は、なんども地図を眺めているうち‥フォッサマグナというものが、どうして陸地にとどまってなければならないんだろ?きっと海に延長されてるはずだよな‥と‥自分の固定観念にヒビが入ったことだった。
糸魚川のフォッサマグナの博物館では‥僕らが過去に習ったのとは違って‥
「フォッサマグナは一本の断層・ラインではなく、溝・幅を持った帯である」と教えられた。
それから、「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」は最初、昭和の復刻版で見たのだが、原本が上越市高田図書館にあることを知って、見に行ったことがあった。
誰でも申請すれば見ることができるし、写真も撮らせてくれる。‥この原本が美しかった。‥調べ始めていた歴史地震の‥作業にも弾みがついた。
そして、現在は(2016年4月)‥九州島で地震があった。…長大悠久、とタカをくくってた地球の時間にボクのちっぽけな時間が追い越されてしまった。
(*5/6には、昨年から噴気を上げていた焼け山が、とうとう小規模な噴火をし、噴煙を上げた)
阿蘇を中心とした今回の地震は中央構造線を東へまたは西南に震源が移動してる。‥間抜けなことに、その両方向の先に川内原発と伊方原発がある。
寒川旭さんの『地震の日本史』(中公新書2007年刊)で、お勉強したこと‥中央構造線上の三連動地震が、そして太平洋の東海・東南海・南海トラフの三連動地震(石橋克彦著『南海トラフ巨大地震』岩波書店2004年刊)が現実味を増している。
1596年の以下の3つは連動型地震の可能性がある。
・9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。
・9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0~7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。
・9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震) - M 7.0~7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。
(*1662年近江・若狭地震も、これら3つの連動型地震と関連するような気がする。中央構造線は淡路島で本線・和歌山→奈良→名古屋→諏訪(フォッサマグナと交錯)とは別に‥支線・神戸→伏見→琵琶湖→若狭が想定できるような気がする。)
見慣れた静かな海を目の前にして「火山島があった」「島が消える‥」なんて!なかなか想像できるものではない。
しかし‥すこし立ち止まってさえみれば、いくらでもそんなことは起こっていたことに気づくことができる。
先述したように…中央構造線上では、別府湾で瓜生島と久光島が沈んだ。
瀬戸内海では由利島千軒といわれ栄えた町が他の島へ集団移転している。弘安年間(1278〜87)のことらしい。‥この島名「ゆり」には、揺れ、ひいては津波に関連するという言い伝えがあるということだ。
(間抜けなことに、中央構造線上この二つの島の間に、伊方原発が建っている。)
島が消えることもあれば、突然に島が出現することもある。‥
817年(弘仁9年)伊豆に大地震につづき神津島が噴火し、現在の伊豆七島のひとつ新島が海中より出現してる。この件には、諸説があるようだけれども‥
つい先日の小笠原諸島の西ノ島新島は、海底火山の噴火で出現し、今も拡大している。
「えっ?でも小笠原って遠いね‥」という方もあるかもしれないが‥
1989年には、伊豆の伊東市沖の海底火山(4キロほど沖)が爆発して、海岸から水柱が見えた。
‥偶然、ボクはこのとき、海岸近くにいてこの噴火を体験している。
伊豆半島は、もともと伊豆島だったけれど、フィリピンプレートに乗っかってやってきて、ユーラシアプレート上の本州島にのりあげている。
伊豆半島ができたのは気が遠くなるほど昔の話だけれど‥島が半島になった記憶は、『記・紀』も伝えている。
それは現在の島根半島のことで、森浩一先生は、出雲の古代を書くときに島根島などというめったにお目にかかれれない言葉を使っておられる。
『出雲国風土記』に出てくる出雲神話には有名な‥「国引き」神話というものがあって、この神話は、たぶん現在の島根半島が島であった記憶を元に作られているのだろう。
ああ、‥おしゃべりがすぎたようだ。
けれど、ボクなんかが以上のようなことごとを思い出すには、3年くらいの時間がかかってしまったのだ。そして、またもや現実に追い越されてしまった。
…しかし、ようやくにして「佐渡と新潟の海岸線の間の‥あの見慣れた静かな海だけれど、火山島と10個の島があった」かもしれない。‥と本気で思い始めたのだった。
⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅
< 「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」‥柏崎刈羽原発と佐渡の間の海域には火山島をふくむ島が10島あった。>…の真贋を考えてみる。
[A]…火山
863年の越中越後大地震について、『訂正越後頸城郡史稿』に‥「直江津沖の島が幾つも沈んだのはこのときか」‥という記事[*1‥後述]があることは知られているが、これは上掲の絵図[巻頭図]を説明した一文だった。
『訂正越後頸城郡史稿』には、附属図(第3巻)があり、『訂正越後頸城郡史稿』第1巻にある記事[*1‥後述]はこの絵図を説明したものだった。
もし、この絵図に根拠があるとすれば、ここに図示された海域は柏崎刈羽原発の目の前の海でもあり、精査すべきであろうと思う。‥しかし、東京電力は調べていない。
柏崎刈羽原発建設当時、原発建設に反対する人々は、”原発敷地の下には活断層がある”と指摘し続けたが原発建設は強行された。
(*原発立地適性検査における手順の転倒…原発建設用地の買収がまず行われ、その後に、買収した用地が原発立地として適切かがおざなりに検討された)
‥そして‥現実に2007年の中越沖地震では柏崎刈羽原発の目の前の海底の断層が実際に動き、2・3号機は‥以来、現在まで‥10年間動かせない‥程のダメージを受けた。
そのようなこともあり、東京電力は、『訂正越後頸城郡史稿』の記事[*1‥後述]のみについて、主に地震・津波の影響という観点から、取り上げてはいる。
しかし、『訂正越後頸城郡史稿』附属図は、柏崎刈羽原発目の前の海域に”火山島があった”という言い伝えを図示しているのだ。
《・『訂正 越後頸城郡誌稿 』とは…
その編纂は幕末に高田藩が発意したが、完成前に明治維新をむかえ、藩そのものがなくなり事業は頓挫した。‥しかし庄田直道ほか15名は、手弁当で編纂事業をつづけ、明治34年一応の完成をみる。‥以降、相馬行風や地元の歴史家によって昭和元年までその校正作業はつづけられた。
しかし現在、『訂正 越後頸城郡誌稿 』の「付属図の巻」にふくまれる*江戸時代初期作成ともいわれているこの古地図の存在はあまり知られていない。
・作画年代…江戸期といわれている。
佐渡島に承久の乱で流された順徳帝の歌が書き添えられいる。絵図の作画は鎌倉以前ではありえないことがわかる。
「付属図の巻」には、もう一葉の本図をもとにコピー・簡略化したと思われる絵図も含まれており、当時、本図、または本図の内容はある程度知られた存在だったと想像される。
絵図には多くの地名が書かれていて、ほぼ現在の地名と同一だが、もしこれらの中に現在は消えてしまった地名を見つけることができれば、年代の推定につなげられるかもしれない。
もうひとつ絵図の上部に、この絵図の由来が書かれていて、文中に特徴的な古代文字が記されている。これも、江戸時代の国学の流行と関連するのかどうか?、手がかりになりそうだ。》
[*1]附属図・[巻頭図↑]を説明した『訂正越後頸城郡史稿』第1巻の記事…
・863年(貞観5)「越中越後大地震」(『日本三代実録』)
・「此大地震水涌キハ郷党口碑ニ伝テ、当郡ノ
大変ニシテ、大津波妙高山ノ麓迄波打上ケ、直江津沖ノ嶋々崩壊セシモ、
此時ヲ云カ、又天武天皇白鳳十二年ノ時ヲ云フカ審ナラス」
昭和16年刊の『中頸城郡史』も、上の記事を引用しているが、島々が沈んだのは白鳳地震の際か、貞観の越中越後大地震の時なのかはっきりわからないとしている。
‥この大地震(貞観5年)水涌は郷党口碑に伝たふる大津波妙高山の麓まで波打ち直江津沖の島々崩壊せしと、云ふに当たるか、又天武天皇白鳳13年の時を云うか審ならず
ところで、上記記述は[巻頭図↑](「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」)を解説したものだったのだ。
<以下3葉は、[巻頭図](「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」)の部分拡大図>
上掲図「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」は、現在の新潟県の上越中越の陸地の地名とほとんど同じだ。距離の目安になるのは妙高(妙光)、焼山(ヤキ山)、2つの黒姫山、米山、諏守山(守門)あたり。
・図示されている5つの火山
(1)頸城三山、妙高・火打・焼山のうち、焼け山は現在も火山活動の活発な山で、2015年夏以来噴気を上げ続けている。この頸城三山の西に平行して(図では裏側)フォッサマグナ西縁が太平洋まで走っている。
(*2016年5月6日小規模噴火が確認された)
火打岳も火山として赤い炎を上げる姿で図示されているが、火打ち岳は火山ではなく噴火の痕跡はない。一方、妙高ははっきりとしたカルデラ地形で火山である。
(2) 現在は何もない海域に、10個ほど島が図示されており、ワタリシマ、ヒダモリジマ、シカシマなどにまじって、ヤキシマがあり、炎を上げる山が2つ図示されている。
この小さな島に、炎が2つ上がっているのも特異なことだ。
また、この海域の陸側には、海底火山が隆起したといわれる米山がある。
『吉川町史』 巻1自然 p127~
3 海底の火山活動の時代(鮮新生450万年前~350万年前)
米山・尾神岳の地域には、激しい隆起運動が起こり、小さな陸地ができた。そして地層は男装でブロック上に分断され、基盤の花崗岩層までも地表に露出し、侵食された。米山西縁の吉尾礫層は、こうした地殻変動を物語るものであろう。
この地域は激動期に入った。隆起した地域には亀裂が生じ、一転して陥没して海底に沈んだ。と同時に、断裂に沿ってマグマが上昇し、激しい海底火山活動が始まった。米山・尾神岳地域では、陥没の窪地を埋めるように、噴出した安山岩類が堆積していった。
マグマの噴出口は、米山さん帯の北西縁谷根~小萱を結ぶ方向と、山体の南西に沿って、上輪から黒岩を結ぶ方向に集中していたものと考えられる。
また尾神岳地域でも各所にマグマの噴出口があったものと考えられる。兜巾山、黒姫山地域でも小規模ではあっても、マグマが噴出したであろう。安山岩類は浅い海底を埋めて次々に堆積した。
火山活動の休止期には泥や砂が堆積し貝類が住み着くこともあったと考えられる。米山山頂付近や柏崎市の上水道水源の谷根湖のダムサイト付近の砂岩層からは巻貝などの貝化石が産出している。また、米山山頂周辺の標高850メートル付近には、安山岩質円礫岩層が見られる。海面近くで波に揉まれた安山岩塊が円礫になったものであろう。
米山尾神だけ地域で多量に噴出した安産岩類は、黒姫背斜を超えた東方の地域、栃尾背斜、黒岩背斜を超えた裁縫の地域には、ほとんど分布せず、国田層の塊状泥岩が厚く堆積する中にわずかに数枚の火山礫凝灰岩そうとして挟まれるだけであった。
4 尾神岳・米山隆起の時代(第4紀更新世前期)
米山・尾神岳の火山活動は、朔峠層が堆積するより以前にすでに主勢力は終息した。
更新世にはいると、米山・尾神岳地域は急速に隆起し、陸化して山地に成長していった。また、周辺では、黒岩背斜や黒姫背斜など褶曲構造も成長した。そして、米山や、尾神岳の南方や西方には広い陸地が出現した。しかし、その陸地の周辺の高田平野、関田山脈、東頚城丘陵の地域は、日本海から入江が深く入り込んでいた。
尾神岳東方の鵜川向斜などの地域では、米山・尾神岳の方向から運搬された多量に安山岩歴が、泥や砂に挟まれて堆積した。これが駒ノ間層である。
<*‥とりあえず‥米山は島であったと考えてみてはどうだろうか。
‥それからもう一つ弥彦山脈(多宝山、角田山、国上山)を島だと考えてみる。
歴史時代が始まる頃でも‥現在の平野部は、海、入江、潟湖、沼がひろがっていて‥そこに2つの大きな島があった。
そう考えたほうが、本来の地形のイメージとしては、現代の馴染みがある頚城平野や蒲原平野の絵面よりは、近いんじゃないだろうか。>
(3)また、佐渡島にも火山(炎)が図示されている。
新潟県生まれのボクですら不思議だったが、佐渡を南北に分つ平野部の山裾には多くの温泉が点在する。‥先頃も、国が大規模な調査を行い、将来的に地熱発電が有望な地域と結論している。
佐渡の西海底は地震をたびたび起こしている。歴史地震を調べると(‥後述)、周期的に中規模の地震があり、2011.311以後も何度か地震が発生してる。
(*これは、ボクの想像だが、‥‥佐渡の中心は平坦な地形で、旧両津市側には加茂湖という大きな潟湖もあり、ひょっとすると古代には、佐渡は、たとえば対馬のように大佐渡・小佐渡という2つの島に分たれていたかもしれない。)
[B]‥津波
『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」・「寛治津波前図」
↑『訂正越後国頸城郡史稿』には、もう一枚、驚くべき図が附属している。
「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」に付属するもう一枚の絵図・「寛治6年(1092)大津波前図」は、「火山図」(前述)が、新潟県上中越中心に描かれているのに対し、下越中越を、特に信濃川を中心に描かれている。
古代の地形は、現在の常識からすると、考えられない程かけ離れた姿だ。しかし、実はこの古絵図の方こそが本来の地形といえるのかもしれない。
戦国〜江戸時代を通じて、新田開発は潟湖から水抜きをしてなされ‥浅瀬、潟湖、沼低湿地は陸化され、大きく見た目を変えてしまった。
・以下は、歴史地震にあらわれる新潟県の津波に関する記述である。
・789〜8(延暦年間)
・[白河風土記]
「石井神社・・延暦年間迄水門口ニアリシカ、地震洪水ニテ社埋没シテ、今ノ石井岡ニ遷坐アリ、則延喜式ニアル三島郡石井神社是ナリ、其旧地海上鳥居懸リト云フ所ニ石ノ鳥居アリ、今モ此所ハ漁船ヲ止レハ災アリ」
・806(大同元年)
”Fuijitukahama seaside beachhouse” さんは、紫雲寺潟にまつわる津波の話を幾つか書かれてている。それによると…
‥大同元年(806)に津波によって紫雲寺潟(蒲原、塩津潟)はでき(『辛丑随筆』天保頃の書物)、寛徳2年(1045)の津波によって紫雲寺33ヵ坊が沈んだ(『鶴牛山下録』)。寛治6年(1092)の津波によって紫雲寺潟の面積が広がった…
・863年(貞観5)
・越中越後大地震(『日本三代実録』)
「戌申、越中、越後等国地大震、陵谷易処、水泉湧出、
壊民盧舎、圧死者衆、自此以後、毎日常震」
・(『訂正 越後頸城郡誌稿 上巻』)越中越後地震について‥「此大地震水涌キハ郷党口碑ニ伝テ、当郡ノ
大変ニシテ、大津波妙高山ノ麓迄波打上ケ、直江津沖ノ嶋々崩壊セシモ、
此時ヲ云カ、又天武天皇白鳳十二年ノ時ヲ云フカ審ナラス」
・1045年(寛徳2)
・[鶴牛山下録] に「大津波 水堪る事六日七夜 越後半国大痛み」「海より汐込みいる事七度に及ぶ」「紫雲寺と申大寺あり 此寺内に困窮なる僧坊三十三ヶ寺 水中へしずむ」‥などの記述が見える。
・1092年(寛治6)
・西宮内「西宮内村誌」越後国に大規模な海嘯
「角田浜砂山古潟海に没す」(『北蒲原郡史』)船江神社
蒲原郡赤塚駅ヨリ五六町北方、小高キ丘ニ船江神明ト称スル小祠アリ‥‥‥‥
赤塚村ハモト飛田庄小吉中浜郷トテ、往昔ハ入江ノ港ニテ着船場故、
船江神明鎮守神ニ坐マシテ、民家悉ク其メグリニアリシヲ
寛治年間、地震大津浪ニテ、
寺泊辺ヨリ角田浜新潟辺マデスベテ変地セシ砌、
赤塚村民家モ、当今ノ地ニ転居シテ、船江神明ト民家ト遙ニ隔レル故、
居村ノ伊邪那岐社自然鎮守神ノ如クニナリ
後吉田家ヨリ赤塚神社号ノ許可ヲ得テ氏神ト致シ候‥‥
(越後国式内神社考証 『越佐史料』高橋義彦編)
同津波について、<東日本大震災に思う、佐々木 >さんによれば、
越後国に大規模な海嘯(津波)があり、「角田浜砂山古潟海に没す」と伝えられ、北蒲原郡史には7日も水が引かず、多くの村が消滅し、越後の地形が変わってしまったという言い伝え”を記録されている。
・1741年(寛保元)
江差の大島噴火‥この津波でどのような被害が新潟県にあったかは、今のところ見つかっていないが…
この江差の大島噴火による地震の津波は越前・若狭まで到達している。(『拾椎雑話』柴田一男家文書)
(*若狭大浦半島の西側では、かなり家屋の流出が記録されている。なによりも北海道の地震で、津波が若狭に到達していることに驚かされるし、被害こそなかったものの1983年、秋田県沖地震日本海中部地震M7.5でも、舞鶴港で1メートル弱の津波を観測している。)
・1773年(安永2)
頚城三山焼け山噴火、火砕流を発生。(*記録に残るうちでは最も大規模だったらしい)
・1804年(文化1)
象潟が隆起し陸になってしまった出羽地震。象潟の内陸部には鳥海火山もある。
(*鳥海山の噴火の歴史を調べてみよう‥)
(*『奥の細道』芭蕉は象潟にに浮かぶ九十九島を見に、わざわざ遠回りして象潟へ出かけている。その約100年後、一茶は芭蕉を偲び象潟をおとづれ九十九島を目の前にして句作した。ところが、出羽地震による地盤の隆起で象潟は消滅。一茶は消えた象潟の噂を伝え聞いて再び作句している。)
(*頸城や中越で周期的に起こっている地震と同じ地震帯で起きているのではなかろうか。[‥後述・D])
・1833年(天保4)
松ヶ崎浜地震(庄内佐渡地震)。高さ二丈余(約6メートル)の津波が信濃川や阿賀野川を逆流。<『現在まで語りつがれる’災害’について』 >さんより
・弘化1年(1844)越後今町(?)で海嘯。(『日本災異誌』)
(*今町とは現在の直江津か?見附市か?)
*2012.07.04 東電が開催した説明会のパンフには、上記年表のうち幾つか歴史地震・津波文献の記載があり、『訂正 越後頸城郡誌稿 上巻 p260』の‥”記事”‥は掲載されているが、『附属図・第1、3』特に火山について何も検討されいない。
「第109回”柏崎刈羽原子力発電所の透明性を確保する地域の会” ご説明内容」
http://www.tepco.co.jp/nu/kk-np/tiiki/pdf/240705.pdf
(p76〜105あたり)
<* 東京電力は、歴史地震による津波の検証を行う為に、任意の地点を何点か選び、ボーリング調査している。‥しかし、その掘鑿ポイントを選ぶ前段階で‥上記、古地図が示す‥現代と歴史地震が起きた時代の地形がまるで違うことをどれだけ考慮しているんだろうか?
元々、海ないし潟だったところをいくら掘っても。津波の痕跡などでてはこないのではないだろうか?>
[C]‥‥上越地方の歴史地震・佐渡の地震
<上越の地震>
この地方では、江戸時代に3つの大地震があった。江戸時代終末期に高田藩の藩命によって資料収集が開始されたと云う『訂正頸城郡史稿』編纂事業は、こういった記憶が生きているなかで開始された。
(1)寛文5年[越後高田で地震]
・越後で大地震。高田城が倒壊し、圧死者多数。(泰平年表)(年代著聞集 4)(地歴)
・越後で大地震、死者120余あるいは1400~1500余人。(続日本王代一覧 4)(続史愚抄60)
(2)宝暦元年‥[名立崩れのあった高田地震]
・ 越後高田で大地震。1日30余回。城下で大被害。死者1000とも16300人とも
(3)弘化三年[善光寺平地震]
・善光寺大地震。参拝者などを含め死者16000人、家屋倒壊34000戸。山崩れで犀川、土尻川、裾花川堰止められる。
‥その後、犀川決壊、大洪水が起こる。流出810戸、浸泥2135戸、死者100余人。
上越地方(頸城地方)の活断層について、列島の原発の下に活断層を発見している変動地形学者・渡辺満久教授が調査しておられた。
高田平野(頸城平野)には、高田平野東縁断層帯と高田平野西縁断層帯地震が存在する。
高田平野東縁断層帯は上越市吉川区から旧中頸城郡を通り妙高市までの約26キロ。断層の長さが従来考えられていたより長いと分かり、地震の規模が大きく見積もられた。発生確率はほぼ0~8%。平均活動間隔は2300年程度とされているが、直近の地震は特定されていない。
一方、高田平野西縁断層帯は、直江津沖から主要地方道上越・新井線(通称山ろく線)にほぼ沿って妙高市まで伸びる約30キロ。平均活動間隔が2200~4800年程度で、直近の地震が1751年(マグニチュード7.2)に起こっていることなどから、今後30年以内の地震発生確率はほぼ0%。確率は前年版より低下した。(地方紙JOETSUTJ 5月20日 2010年の記事)
先に話題にした『訂正越後国頸城郡史稿』は明治30年代の発刊されたが、昭和はじめには『中頸城郡史』が刊行されている。
この本には、「天災地変」の章があり、中でも地震について多くのページを割いていいる。その項のまとめ「往古地震年代記」に…
「この地方の大地震は7〜80年から100年に一回やってくる」と書き、警鐘を鳴らしている。
「… 右は高田建設(1614年・慶長19年)以来3度の大地震の略記なり、この大地震の甲乙を按ずるに、寛文5年(1665)の地震は高田近郷を地震の中央とするが、当時の書籍は乏しいと云えど、幕府より高田市街に5万両の下金あるにて、その大震の模様を察知せられるべし。
宝暦元年(1751)の地震は、西浜、名立、有間川、辺より高田城市をもって中央とし。
弘化4年(1847)の地震は、信濃国水内郡辺を以て中央とするもののごとし。
しかして弘化の地震は3度中の丙に位するものにして、当郡にとっては軽き地震と云えども、そのときの模様を今日想像するに、実に恐るべき有様なりしなり。
然してその年度を計るに必ず7〜80年より100年前後には一回この災害の巡回するもののごとし。」・天平六年〜天長4年まで‥‥93年
・天長4年〜貞観5年まで‥‥36年
・貞観5年〜永祥元年まで‥‥126年
・永祥元年〜寛治6年まで‥‥103年
・寛治6年〜長承2年まで‥‥41年
・長承2年〜正嘉元年まで‥‥124年
・正嘉元年〜永仁元年まで‥‥36年
・永仁元年〜興国元年まで‥‥47年
・興国元年〜明応7年まで‥‥158年
・明応7年〜天正13年まで‥‥87年
・天正13年〜寛文宝暦元年‥‥86年
・宝暦元年〜弘化4年まで‥‥96年
<佐渡の地震>
下図、国の地震調査研究推進本部サイト掲載図‥によれば、佐渡には北東沖と、南西沖に2つの震源域がある。粟島周辺にも広い震源域が示されている。
http://www.jishin.go.jp/main/yosokuchizu/chubu/p15_niigata.htm
2011.3.11後…2012年(平成24)2月8日、佐渡沖で大きな地震があった事は記憶に新しい。(佐渡市で震度5強。震源は小木沖で深さは約14キロメートル、マグニチュード5.7)
佐渡の地震はめずらしいが‥江戸時代に佐渡の地震の活動期があったようだ。
以下に、佐渡の地震活動期前後の際立った歴史地震を拾ってみた。
この佐渡の地震の活動期に、太平洋の東海・東南海、南海のトラフ三連動の地震があったことは興味深い。
1665(寛文5)年
12月27日 越後で大地震。高田城が倒壊し、圧死者多数。
(泰平年表)(年代著聞集 4)(地歴)
1670(寛文10)年
6月5日 越後で大地震。村上城、民屋600余が倒壊。
田200余町が損失。(厳有院40)
*宝永大地震(東海・東南海・南海連動地震)
1707(宝永4)年
10月28日(あまりに広域にわたり、かつ被害甚大につき、被害状況割愛)
1729(享保14)年
8月1日 能登・佐渡地震 M6.6~7.0 佐渡で死者、家屋倒壊あり
1773年(安永2)
頚城三山焼け山噴火、火砕流を発生。
(*記録に残るうちでは最も大規模だったらしい)
1802(享和2)年
11月15日 佐渡で地震。(三災録)
(佐渡小木地震、1802年12月9日[享和2年11月15日]に佐渡島小木付近で発生したマグニチュード M6.5から7.0と推定される地震で、享和佐渡地震とも呼ばれる。震源は佐渡島南方海域の東経138.35° 北緯37.8°付近と考えられている。津波発生の記録はない。wikiより)
1804(文化1)年 象潟地震
1810(文化7)年
1月1日 佐渡地震。連日やまず。(十三朝記聞 6)
1828(文政11)年
11月12日 越後で大地震。三条・見付が壊滅し、
少なくとも1443人が死亡(3万余とも)
(越後地震口説)(浮世の有様)
1833(天保4)年
10月26日 出羽・越後・佐渡で大地震。庄内地方で被害甚大。
1844(弘化1)年
2月2日 越後今町(新発田市?)で海嘯。(日本災異誌)
1847(弘化4)年
3月24日 善光寺平地震。参拝者などを含め死者16000人、
家屋倒壊34000戸。
1853(嘉永6)年
小田原被害甚大で2200余戸、土蔵1148棟倒壊。死傷700余人。
(*石橋克彦教授によればこの小田原の地震が、関東の地震の活動期を告げる地震であり、活動期終了を告げる地震が、大正関東大地震だった。)
*安政大地震(東海、東南海、南海連動地震)
1854(安政元)年、11月4〜5日(被害甚大につき、被害状況割愛)
(*資料にあらわれる、被害者数、被災家屋数について…現代の感覚で見てしまうと過小評価につながる。)
[D]‥‥フォッサマグナと構造帯
現代に戻ってみると、‥戦後新潟県では1964年、新潟地震、2004年中越地震‥が記憶に新しい。
これらの地震の震源は信濃川の川筋と重なり、長野県松代群発地震や、つい先頃の2011年東北沖地震の数日後に起きた長野県北部栄村の地震が思い起こさせる。
これらの地震は、古くは善光寺地震、近年では新潟地震や中越地震の震源と結ばれてて一本の帯をなしていることがGPSの発達によって最近わかってきた。
この帯は‥神戸新潟構造帯と呼ばれている。
(*神戸新潟構造帯→信濃川川筋に相似。…そう思って下図を見ると‥図右下にある「異常振動帯」・柏崎〜千葉構造線は‥利根川の川筋にある程度重なる。
…今では銚子沖に注いでいる利根川だが‥明治時代、足尾銅山鉱毒事件が起こる前は東京湾に注いでいた。足尾の鉱毒が東京湾に流入しないように、時の政府は川筋の付け替えをおこなった。)
(*2007年、柏崎刈羽原発が黒い煙りを吹き上げた中越沖地震はすこしずれる‥別のライン下図の柏崎〜千葉構造線、またはフォッサマグナ東縁は海の中ではどのようにに走ってるのだろうか?)
…地震はどうして起こるのでしょうか?日本列島の岩盤は、太平洋側とアジア大陸側からの2つの力によって押されています。
この力に耐えきれなくなって岩盤が崩れる(断層が動く)時の振動が地震です。
太平洋側から沈み込むプレートによって引き起こされる地震を海溝型地震、日本列島の浅いところの岩盤が壊れて起こる地震を内陸型地震とよんでいます。
フォッサマグナの北部地域に起こる地震は、すべて内陸地震です。被害地震のおこる場所は、どこでも起こるわけではなく、限られた地帯や地域に集中しています。特に、新潟県を縦断する地震帯は、‥信濃川地震帯と呼ばれています。
この地震帯は、近年の人工衛星による観測(GPS観測)によって、東西の岩盤がぶつかり合うところであることがわかりました。
この帯の西側の岩盤は、東の方向に動いているのに対し、東側の岩盤は西の方向へ動いています。この衝突帯は信濃川地震帯を含むもっと大きな地震帯になっているようで、陸域では、新潟から信濃川に沿って長野市、大町市と連なり、岐阜県北部、琵琶湖京都を経て神戸へ連なっています。
これらGPS時観測によって明らかになった陸域の衝突帯を新潟~神戸構造帯とよんでいます。
この構造帯の北方への延長戦は日本海に伸びて、1983年の日本海中部地震、1995年の北海道西南沖地震と連なり、日本海を北上しています。
『フォッサマグナってなんだろう』(糸魚川フォッサマグナミュージアム)刊より
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2015年になって、東京電力が柏崎刈羽原発の全基再稼動を申請したことについて…
柏崎刈羽の2・3号機は東北沖地震から動いてないのではなくて、2007年中越沖地震以来、10年間も動いてないのです。その他も5年近く動いていないことになります。
現在進行中の九州島地震で、にわかに稼働中の川内原発を停止させて欲しい、という機運が高まっていますが‥昨年、長期停止した原発の運転再開の危険性に警鐘がならされたなかでの川内原発は再稼動強行でした。
2015年8月6日、Bloomberg紙によれば…
国際原子力機関や米国、カナダの規制当局のデータによると、最低 でも4年間停止した原発の運転が再開されたケースは世界で14基。その すべてが運転再開後にトラブルに見舞われている。
しかし、九州電力は再稼動を強行してしまった。そして‥
2015年8月21日…1号機は2015年8月11日午前10時半より再稼働して10日後に復水ポンプ付近でトラブルが発生、21日に予定していた95%への出力上昇を延期した。‥wiki
他方つづけて、政府・関西電力は高浜3・4号の再稼動を強行した。
しかし、やはりここでも4号機が、再稼動に向け出力を上げている最中に緊急停止した。…現在は、再び、3・4号機ともに停止に追い込まれている。
2016年1月29日、3号機再稼働。
2016年2月4日、3号機定格熱出力一定運転を開始。
2016年2月26日、3号機本格運転を開始。4号機再稼働。
2016年2月29日、4号機緊急停止。4号機が緊急停止したのは1999年10月27日の京都大停電以来で、関西電力としては2008年11月送電線への落雷で美浜原発が緊急停止して以来。
2016年3月9日 - 大津地方裁判所が、高浜発電所の3号機と4号機について、関西電力に運転停止を命じる仮処分の決定を出した。
2016年3月10日 - 仮処分を受けて3号機停止。
(*福島第一原発事故後‥
4号機…2011年7月21日、定期点検のための運転を停止。
3号機…2012年2月20日、定期点検のため3号機の運転を停止していた。)
[火山]
‥「『訂正越後国頸城郡史稿』附属絵図」の消えた火山島に注目しているうちに‥ 1974年の登山客3人が亡くなった噴火以来‥昨年2015年夏、頚城三山の焼け山が噴気を上げ始めました。(*2016年5月6日には、小規模噴火が確認された)
‥原子力規制員会には火山学者はいません。‥調査すべき東京電力も火山については全くと言ってよいほど調査していません。
<新潟焼け山ライブ・カメラ観測システム>
http://doboku-bousai.pref.niigata.jp/yk_camera/
[津波]
繰り返しになりますが…
< 東京電力は、歴史地震による津波の検証を行う為に、任意の地点を難点か選び、ボーリング調査しています。‥しかし、その掘鑿ポイントを選ぶ前段階で‥上記、古地図が示す‥現代と歴史地震が起きた時代の地形がまるで違うことがどれだけ考慮されてるんだろうか?
元々、海ないし潟だったところをいくら掘っても。津波の痕跡などでてこないのではないだろうか?>
フォッサマグナの東・西縁線に挟まれた地域には、厚さ3000m〜6000mのふかふかな土壌が堆積しています。‥つまり岩盤はないということです。
そした、そのふかふか土壌に阻まれて、深くにある岩盤の傷・活断層が発見しにくい。…現在の原子力規制委員会の活断層調査は、地表に断層が表出しているものに限られています。
ひじょうに活断層の存在を発見しにくい場所であるはずなのに、柏崎刈羽原発の直近には、以下のような活断層が知られているのです。
[↑変動地経学者の東洋大学教授・渡辺満久さん作図]
しかしそれ以前に、そもそも、原発の敷地で問題とされている「活断層」の定義って、どういうものなんでしょう?
断層は垂直ずれてるってことはまずありません。断面は斜めです。なので断層が地表に現れている場所から離れていても断層上に原発が建っているってことがあるはずですが、それは問題にされていません、
(*地上では、1本の線に見えても、地下では幅を持った断面・帯である。)
下図の赤い文字の下の場合だけが問題にされているのです。…そして、そんな希にしかありえないはずの、いわゆる「活断層」が各地の原発敷地から見つかってしまっているのです。
[石橋克彦教授作成]
もう一度、前出の[フォッサマグナと地震帯の図]をじっくり見てみることにしましょう。
この図にある「異常地震帯」のラインはフォッサマグナの東縁にも当たりますが、その延長線上には、柏崎刈羽原発が位置しています。(この図では、デザインの都合上なのか、とぎれている)
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大自然が引き起こす災害は防げないが原発震災は止められる。月並みだが、これに尽きるんじゃなかろうか。
東海・東南海・南海トラフ連動地震
2003年に、国の中央防災会議が「東南海・南海地震対策大綱(平成15年12月中央防災会議決定)」
を発表している。
ところが、東北沖地震を機に2012年、「東南海・南海地震対策大綱」は見直され死者数は最大40万人に訂正された。
・(白井 邦芳・危機管理コンサルタント‥2012.07.12)
内閣府作業部会代表の発言で津波被害の深刻な状況が明らかに
国の中央防災会議が2003年にまとめた約2万5000人だったが、今回の予測は、それをはるかに上回るものであった。
東海、東南海、南海地震などが同時発生する「南海トラフの巨大地震」で想定される死者数は、静岡県から高知県の太平洋沿岸を中心に最大で約40万人以上に上るという試算を、河田恵昭・関西大教授が6日、大阪市で開かれた講演会で明らかにし、業界に激震が走った。
なお、見直しがなされた東海・東南海・南海連動地震や、今回の九州島の地震以後、予想される事態については…
「2016/04/17 M7.3の熊本地震は南海トラフ地震の前兆か!? 岩上安身による立命館大学環太平洋文明研究センター・高橋学教授インタビュー!(動画) 」…で怖い話がなされていた。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/297447
話は少しそれるけれど…
昨今…「大地震のための緊急事態条項を憲法に入れる」というような喧伝がなされている。‥しかし‥
以下の、2003年の「東南海・南海地震対策大綱(平成15年12月中央防災会議決定)」を概観すると、
意外にも…非常時のことが考えられてきており、大規模災害が起きるたびに、随時それに対応すべく、具体的な法整備が積み重ねられているようなのである。
この大綱では4つの大きな地震が想定されていた。
東南海・南海地震
20mを超える大きな津波 日本海溝・千島海溝(20mを超える大きな津波)
30年以内の地震発生確率: 70%程度(東南海地震) 60%程度(南海地震)
30年以内の地震発生確率:88%
不明(東北地方太平洋沖地震発生 前の宮城県沖地震の30年以内の 地震発生確率:99%)
首都直下地震
30年以内の地震発生確率: 70%程度(南関東で発生するM7程度の地震)
我が国の中枢機能の被災が懸念 首都直下地震
そして、東海地震と東南海・南海地震が別々に発生した場合と同時に発生してしまった被害を別々に予想していた。
「東海地震」や「原発震災」という言葉の生みの親・石橋克彦先生の講演からのレジメ…
・Mが2大きくなると、放出エネルギーは約1000倍、地震波を出し続ける時間は約10倍
・フィリピン海プレートの西南日本下への沈み込み → 南海トラフ巨大地震 (M8~9) を起こす
・歴史上は、684、887、1096 (1099?)、1361、1498、1614?、1707、1854 (2回)、1944/1946年に発生
・アムールプレート東縁変動帯の大地震活動期が先行する可能性 (日本海側や内陸の複数の大地震)
・1854、1944/46年の東海・南海巨大地震の前50年程度も同様、887年の前も顕著 (三陸、関東も)
・首都圏大地震も先行または続発する可能性:1853年小田原~1854年安政東海・南海~1855年江戸の実例
・南海トラフ巨大地震と同時か前後に、糸魚川・静岡構造線断層帯で大地震が起こる可能性
・南海トラフ巨大地震災害 (西日本大震災) は超広域複合大震災、東日本大震災の10倍程度か?
(*現代に生きる僕たちは、”関東大震災”のニュース映像の印象が強すぎて…
「関東大震災は関東地震活動期50年余りを締めくくる地震」…ということを忘れてはいないだろうか‥‥
そして、いまだに関東地震活動期を告げる小田原地震は来ていない。
もし小田原地震が発生すると、歴史地震的に見て、そのあと余り時間をおかずに東海トラフが動く可能性が高い。
そして、3.11東北沖地震以後は…東海地震と東南海・南海地震の三連動が危惧されている。)
柏崎刈羽原発を再稼動させてよいのだろうか?
東京電力は柏崎刈羽原発を再稼働させる為のパフォーマンスとして、海抜15メートルの防潮堤を原発周辺に作らざるを得なかった。
しかし、海抜15メートルの防潮堤?‥不思議じゃないですか?‥原発に15メートルの防潮堤を作らなければならない津波が予想されているなら‥もし、15メートルもの津波が来たら、新潟県の沿岸部住宅地はどうなるんでしょう?‥小高い砂丘の上にある柏崎刈羽原発はともかく、平坦な柏崎市街地は水没してしまうんじゃないだろうか?
そんな状況で原発だけ守って‥…おまけに発電された電力はすべて関東に送られる。…ああそれなのに、いまだに「原発止めたら、県の経済は地盤沈下する」などという妄言を信じている人たちがいる。
(*『新潟日報』連載記は、そのウソを暴いて見せている。)
(*住民を守る防潮堤を作る前に、いち早く、無駄な防潮壁を原発の回りに巡らそうとする、そういった考え方に、あの人たち原発を推進する一握りのしかし声はでっかい人々の本音と嘘が、象徴的に現れていると思います。)
また、柏崎刈羽原発は、砂丘上に建っていますので、30メートル掘り込んで、原子炉建屋を建設してる。このことは、様々な問題を引き起こします。[後述]
ある日の脱原発講習会にて
講師は、佐藤暁さん‥原子力コンサルタント。1984~02、GE原子力事業部に勤務。…ふ~ん…と思ったが、面白いお話が聞けた。(1)今さら知らなかったな‥柏崎刈羽の原子炉建屋は地下30mくらいから立ち上がってて、あのフクイチ事故経験後も非常用電源を最下層近くに置く→
(2)廃炉は技術的に簡単でないので原発は動かし続けるしかないという意見がありますが‥
質問に答えて佐藤暁さんは「廃炉技術は確立されており、難しくありません」と断言し「ただ‥福島は別ですが」と付け加えた。
…つまり事故らないうちに廃炉すれば、作業は簡単ってことだろ→
(3)規制庁の再稼動の為の審査の不備については、勝訴した差し止め訴訟判決文に列挙されてるが…あまり話題になってない(1)に関連する地下水・汚染水問題。フクイチ事故以降に新たに大問題となっている。…汚染水に対する対策を審査したら再稼動はありえないだろう。
フクイチでは汚染水の仮置き場に無数のタンクが立並ぶが、そんな余分な敷地がある原発は少ない。‥そのフクイチへの1日の地下水流入量は、400立方メートル‥で柏崎刈羽は3300立方メートルだ。地下30メートルから原子炉建屋を立ち上げており、中越沖地震で無数のヒビが入った
テレビニュース見てると耐震補強がなされたように錯覚するが‥地下の建造物どうやって根本補強ができんの?‥佐藤暁さんは原子炉建屋の「根本的耐震補強は不可能でなされていない」と断言。無数のヒビ割れから地下水が染み入り、鉄筋腐食→膨張→さらにクラックの悪循環、劣化が進行中